其の十 創業への志を育んだ地 富山

善次郎翁の足跡が残る富山の町

明治安田生命富山ビル
「安田善次郎翁記念室」入り口にある翁の胸像

北陸新幹線の開業に沸く富山。新しくなったJR富山駅から徒歩約1分の場所にある11階建ての明治安田生命富山ビル入り口に、安田善次郎翁の銅像が立っている。ビル内に入れば、2階には「安田善次郎記念室」がある。翁の生誕150年を記念して作られたもので、その生涯にまつわる展示や自筆の書画、映像などを誰でも自由に見学できるようになっている。富山は善次郎翁が生まれ育った土地である。展示ケースの中で、翁と妹の文子の座像と並んで置かれた木彫りの大黒様が目を引く。高さは5cmほど、米俵に乗った姿だ。

これは翁が幼少の頃、畑を耕していて土の中から見つけたものだという。それは、金融、不動産などさまざまな事業を展開するその後を暗示する出来事だったのかもしれない。翁は終生、この像を大切にした。また晩年には趣味の画の題材として、しばしば大黒像を描いている。
安田家の遠祖は三善清行といい、平安初期の高名な漢学者だった。また清行から9代目の三善康信は、源頼朝と親しく、鎌倉幕府の基礎固めに尽くした。どちらも歴史書に登場する人物だ。やがて遠孫は、医師を業として備中国福山に定住。

宝永2(1705)年に、越中国婦負郡安田村に移った三善清雄が安田家直系の祖先である。清雄の三男楠三郎は元文2(1737)年に富山城下に分家して商業を始める。この時から屋号は出身村から「安田屋」とし、当主は三善姓から採った「善次郎」の名を襲名するようになった。
半商半農の安田家だったが、質素倹約に努めた四代目善次郎の時、代々の悲願であった士分を買い取ることができた。役職は最初は「御長柄」、やがて「御茶道」「掃除坊主」と昇進し、名を善悦と変えた。しかし藩士としての地位は低い。半士半農の生活であったという。
天保9(1838)年10月、善悦に3人目の男子が誕生する。上2人の男子は夭折し、実質的には長男であった。幼名は岩次郎。これがのちの善次郎翁である。
安田家があったのは、富山城の城下町から川をへだて、当時は「橋北」と呼ばれたエリアだ。農家や下級武士が多く住んだ貧しい地だったという。その中の鍋屋小路といわれた道幅2mほどの路地の、間口3間、部屋数3室の小さな家が岩次郎の生家。その場所は明治安田生命富山ビルから徒歩10分ほど。富山駅に近く、通勤通学にも便利な住宅地だ。

「安田善次郎翁記念室」には休憩できるテーブルも

畑の土の中から見つけたという木彫りの大黒像

家の跡地は今「安田記念公園」になっている。昭和35(1960)年に翁の孫である安田一が、児童公園としてこの土地を富山市に寄贈したのだ。遊具やあずまやのある広場では、子供たちが遊び、地元の人々も憩う。

生家跡の「安田記念公園」

一角には高橋是清の書による「松翁安田善次郎翁誕生地」の石碑や、かつて使われた井戸もある。この一帯の地名も安田町という。幼い岩次郎が境内を遊び場とした愛宕神社もすぐ近くだ。

公園に建つ石碑は、高橋是清が揮毫している

当社では、小さい時からよく本を読んだ翁にちなみ、安田記念公園の横にある愛宕公民館に毎年、児童書の寄付を続け、「安田善次郎翁記念図書」として地域の子供たちに親しまれている。

愛宕神社

幼少期から育んだ「千両分限者」への夢

岩次郎はよく働き、よく学ぶ子供だった。士分を得たとはいえ、暮らしは貧しい。幼少期から田畑の仕事を手伝い、また「木屋」と呼ばれていた七高理太郎の寺子屋に通って勉強した。富山の寺子屋では和算の教育に力を入れていたそうだ。商売に必要な計算術も、ここで身につけていったのであろう。
富山はもともと仏教信仰の篤い土地だ。勤勉に働き、質素をよしとする心は、そうした地で培われた。また、富山は商業に長けた歴史も持つ。「先用後利」(使った分だけ後でお金をもらう)という薬売りのシステムは、世界に類ない画期的なものだった。富山の薬は江戸時代から全国に広がり、現在でも製薬業は県の主要産業だ。海沿いでは北前船による商業も大きく栄えた。富山港に近い岩瀬には、旧北国街道沿いに全国でも指折りの廻船問屋が並んでいた。北前船は北陸では「バイ船」と呼ばれた。行く先で積み荷を売っては、その土地の特産物から安くてよいものを仕入れ、また次の寄港地で売る。売買しながら、倍々と儲けたということからだ。これは「ノコギリ商法」とも言う。行ったり来たりして稼ぐ意味だ。

善次郎翁75歳の頃の書画にも大黒様の絵

こうした土壌が、岩次郎に商売の才覚を植え付けた。12歳くらいからは野菜や切り花の行商に出た。信仰深い土地柄、仏花を毎朝買う家は多い。生家から約10kmほどもある岩瀬にも通った。裕福な廻船問屋などで売り歩いた後も、手ぶらでは帰らない。港町の魚を仕入れ、富山城下で売るのだ。バイ船と同じ発想である。
農作業と行商で昼間を過ごし、夜は写本の内職も行った。読書好きで習字も得意だった岩次郎の能筆ぶりには依頼も多かったらしい。売上の1割を父から受け取るうち、蓄えも少しずつ増えた。家の土蔵の扉や、妹たちの文机などの資金も貯金から出したそうだ。「勤倹力行」という生涯の座右の銘も、この頃から育まれたものだった。

往時の繁栄がしのばれる「廻船問屋 森家」

岩瀬は今も人気の高い観光地だ。通りには主に明治6(1873)年の大火を経て建て替えられたという、廻船問屋の豪壮な屋敷や蔵が数多く残る。ここでは、50年ほど前まで野菜の行商人の姿が多く見られたそうだ。国指定重要文化財の「森家」は、建物内部も見ることができる。貴重な材をふんだんに使いながらも、絢爛に偏らない造りの見事さは富山の商人らしいところだ。 15歳の時、岩次郎は進むべき道を定める。きっかけは、大坂の両替商の手代が乗った駕籠を、藩の勘定奉行が丁重に迎える様子を見たことだ。商人はそれだけの力を持つことができる。低い身分の藩士に甘んじるより、商売で「千両分限者(財産家)」をめざそう。江戸幕府は衰亡の時を迎えていた。翌年にはペリーが来航し、時代は大きく動いていた。岩次郎は江戸に出ようと決意した。

富山駅からライトレールで行く岩瀬の街並み

江戸での成功の後も、富山の発展に尽くす

17歳、遂に岩次郎は両親に無断で家を出た。通行手形を持たないため藩境の関所を避け、飛騨から松本方向に向かおうとしたのだが、夜道の山中で道に迷い、見つけたあばら家に宿を求めた。そこで主人に諭され、富山に戻った。2度目は20歳の時だ。今度は友人と共に出奔して江戸に着き、海苔鰹節商に奉公に入って、名を忠兵衛と改めた。しかしまたも数か月で叔父によって連れ戻される。
そして翌年、両親を説得し、従兄弟と共に再度江戸に出て玩具店で行商に就いたのち、日本橋小舟町の「広林」という両替商兼鰹節商で奉公するようになった。
読み書きそろばんに優れていた忠兵衛は、両替商の仕事をよく覚え、主人や同業者に信頼された。こつこつと働いて貯蓄し、仕事が終われば当時の奉公人が皆そうだったように、常磐津なども習った。
広林での奉公は3年間だった。文久3(1863)年に店を辞めた忠兵衛は、26歳で独立の一歩を踏み出す。小舟町の辻で戸板にスルメを並べて売りながら、小銭の両替を始めたのだ。住んでいた日本橋葺屋町の棟割長屋には、青雲の志を抱く若者たちも多く、互いに切磋琢磨する環境であったようだ。
貯めた資金で人形町の家屋を借り、海苔や鰹節、砂糖の商いとともに両替商を始めたのは翌年のことだった。屋号は「安田屋」とし、名は「善次郎」と改めた。この独立こそが、現在の安田グループにつながる善次郎翁の事業のスタートなのである。

善次郎翁は富山に戻ることはなかったが、故郷への思いは常に胸にあったようだ。
母を亡くした後、明治5(1872)年には父の善悦を東京に呼び寄せているが、幼少期に遊んだ愛宕神社には父の名で鳥居を寄贈した記録もある。また後年、全国各地の鉄道事業に参画した中でも、中越鉄道への出資は故郷の発展を望んでのことだ。
能登半島の氷見から高岡、城端を結ぶ中越鉄道は、富山県初の市営鉄道として明治29(1896)年に着工し、大正元(1912)年に全線が開通した。善次郎翁にとって、出身地である富山の人々の要望に応えてインフラ整備に力を尽くすのは、ごく当然のことであったろう。富山県西南部の農作物を港に運ぶこの路線によって、商都高岡は大きく発展した。大正9(1920)年に路線は国有化され、城端線・氷見線・新湊線になった。

北陸新幹線開業後、富山県内を走るJR北陸線は、第三セクターあいの風とやま鉄道に変わったが、高岡駅を起点にする城端線と氷見線はそのままJR路線として残った。のどかに走るローカル線は、人々の日常の足として地域の暮らしに欠かせない存在だ。 富山の風土と強い意志の力が、善次郎翁の数々の事業へと結びついた。翁は千両分限者の夢を実現した後も勤倹実行を旨とし、「勤倹堂実行道人」とも名乗った。 労をいとわず質素勤勉に、人々に喜ばれる仕事に邁進する――。その心は、私たち安田不動産の一人ひとりが未来へと引き継いでいきます。

高岡駅を始点とするJR城端線

後年に主宰した社交グループ「偕楽会」の会員帖にも
翁の書と写真がある(安田善次郎翁記念室)

明治安田生命富山ビル前に建つ善次郎翁の像

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