其の九 賑わいを感じる街へ 神田錦町

明治期から多くの貸地を持つ縁深い土地

神田錦町は、東が本郷通り、西が白山通りに接し、南に首都高速都心環状線の下を流れる日本橋川、北には神田小川町や神保町が位置するエリアだ。江戸時代には武家屋敷が並び、旗本である一色家の屋敷2軒があったことから「二色=錦」の地名がついたといわれている。享保2(1717)年の大火では江戸城外濠に面した護持院という寺が焼失し、その跡地周辺は護持院ヶ原と名づけた火除地とされて、将軍の鷹狩なども行われていたそうだ。皇居も間近なこの地域には、安田不動産が所有、開発したオフィスビルが数多く並ぶ。

初代安田善次郎翁が明治時代に取得した土地が、ここ神田錦町にも広範囲に広がっていたためだ。
善次郎翁は、明治初期から不動産の取得を活発に行ってきた。旧大名・華族の邸宅跡を買い取る場合もしばしばだったようだ。神田錦町については正確な記録は残っていないが、取得は明治20(1887)年以後と思われる。入手した土地は売却することなく、事業等に使用する以外、その多くは貸地としていた。明治45(1912)年に合名会社保善社に登記を移すと、不動産管理のための差配所を全国7か所に置き、神田錦町もそのひとつとなった。

護持院ヶ原跡の石碑

またこの地はさまざまな学校が開かれていた場所でもある。東京大学、東京電機大学、学習院、中央大学なども明治時代の神田錦町から発祥している。同じく神田錦町にあった東京植民貿易語学校が、経営不振で善次郎翁に援助を求めたのは大正7(1918)年。善次郎翁は基金提供とともに改善策として商業夜間部設置を提言した。二代目善次郎の代には5年制の保善商業高校の併設を支援し、関東大震災で同校が本所横網町に移転してからは保善工業高校も併設し、3校体制となった。その後、東京植民貿易語学校は淀橋区(現・新宿区)に移転し、保善商業高校と保善工業高校は現在の安田学園中学校・高等学校へと推移していった。

学習院(華族学校)開校地の石碑

こうした縁深い神田錦町ではあったが、大半の所有地は細分化された貸地である。軒を並べる小さなビルや、個人の住まいを兼ねた商店建築も、昭和時代後半になると老朽化や相続問題などが頻発していく。戦後、合名会社安田保善社(旧・合名会社保善社)の所有地を管理してきた安田不動産にとって、それは大きな課題だった。そこで昭和40年代にスタートしたのが、土地ではなくビルを所有して貸すという貸ビル業だ。
昭和44(1969)年の神田橋第一ビル(現・神田橋安田ビル)は購入ビル第一号。神田錦町1丁目にある。昭和51(1976)年には、3丁目の木造2階建て事務所と駐車場の借地権を買い戻し、錦町安田ビルを竣工した。さらに借地人と共に資金を出し合う共同ビル化も進められていく。昭和53(1978)年、オーム社との共同ビル、昭和60(1985)年に等価交換方式第一号の神田ユニオンビルが完成した。等価交換方式とは、地権者が土地、ディベロッパーが建築に関わる資金・ノウハウを提供し、それぞれの割合に応じて完成したビルの権利を取得する建て替えの方式である。
さらに平成3(1991)年には2丁目南端にTG安田ビルが完成。当時、大手町にあった安田不動産の本社は、かつて護持院ヶ原跡地であった場所の自社ビルへと移った。

神田錦町の主な所有ビル

街に賑わいを呼び込む大型プロジェクトが発進

錦町トラッドスクエア外観

しかし昭和50年代以降に建てたビルも徐々に老朽化が進む。また一方、時代の推移とともに、神田錦町周辺には一種のエアポケットのような状況が出来ていた。神保町は古書街、秋葉原はアニメやITの街として多くの人で賑わう。大手町はビジネスの中心でありつつもブランド店が並ぶ人気エリアに変貌した。神田駅周辺も、ひしめく飲食店が人々を集める。そうした地域に囲まれ、立地的には充分なポテンシャルを持ちながらも、中小オフィスビルが建ち並ぶ神田錦町は際立った特色がなく、夜間や週末には閑散としてしまうのだ。
千代田区では、神田地域から錦町にかけては「街なかににじみ出す神田の人情・たたずまい、人が賑わう神田界隈の形成」、錦町の中央を横切る神田警察通りについては「人の流れを誘導する、緑と賑わいの道路空間」というまちづくりグランドデザインを構想していた。安田不動産としても本社のある神田錦町を、人々の賑わいがあり、地権者が住み続け働き続けられる街にしていく一助となりたい。
注目したのは、千代田通りと神田警察通りの交差点に面した、3丁目の土地だった。
この一角は2本の細い道で3ブロックに分かれていた。ここを街区単位で再開発するには――。大口の所有企業4社での勉強会は15年余り前からスタートした。協議の末、2ブロックは大半の権利を持つ企業が担い、安田不動産では3方向が主要道路に面した1ブロックを開発することとなった。
プロジェクトのテーマは「錦繍開化〜伝統とにぎわいが織りなすまちへ〜」。古き良き神田の歴史と、街の魅力付加による相乗作用で新たな伝統を作り出すというものだ。
開発がスタートする前、このブロックには7つのビルがあった。安田不動産が完全所有するのは錦町安田ビルのみ。神田中央ビル・神田ユニオンビル・島田ビルは共同ビルであり、この他の3棟は安田不動産の貸し地上にあった。その複雑な権利事情に加え、店舗を営む権利者3名、住居を構える権利者2名。その他にオフィスとして賃借しているテナントも多数あり、それぞれが長年この街区に暮らし、働き、愛着を持っていた。

錦町トラッドスクエアの敷地南側には小さな池もある

公開空地を利用したオープンカフェ

街を彩る木々の緑は皇居へと連なる

ここをひとつの大型ビルとして開発するための交渉は、平成18(2006)年の末から始まった。当社は毎日のように地権者のもとに通って交流を深めた。雑談の中に一人ひとりの希望を汲み取り、代替地の手配などにも奔走した。一番新しい建物でも築21年である。建物を維持するには近い将来になんらかの対応が必要なことなど、共同建て替えの意義は徐々に理解を得、やがて皆が街づくりのために協力してくれるようになった。当社にとっては、はじめて出会う方たちばかりであったが、何度も訪ねるうちに親しい友人のような関係をいくつも築けたという。「開発は人のためにならなければ。喜んでいただけるのがやりがいでした」と振り返る。
ビルの解体工事は平成22(2010)年にスタート。設計には東京都総合設計制度を活用し、翌23(2011)年に新築工事が着工した。そして平成25(2013)年3月、遂に完成したのが、敷地面積約2,200m2、地上16階、地下1階の大型ビル「錦町トラッドスクエア」である。


エリア全体で作り出す、神田錦町の新しい魅力

錦町トラッドスクエアは、単なる大型ビルとして建てたものではない。目的は神田錦町の新たな魅力創出だ。人々の流れを作り、賑わいを呼ぶ――つまりは街づくりへの取り組みと言っていいだろう。
敷地で特筆すべきは緑の多さだ。花の咲くもの、実のなるもの、紅葉するもの………、さまざまな樹木を配したビル周囲は、ベンチも置かれ、通りがかりの誰もが緑陰でゆったりとくつろげる。ビル風を防ぐ常緑樹も並び、1階カフェのガラス面に映る姿も心地よい。南側には、錦鯉が泳ぎ、水草やクレソンが茂る池もある。その風景は街の人々が交流するきっかけを創出するのにも役立っているようだ。
北側の広場は木々の下にテーブルが並ぶオープンカフェになっている。本来、総合設計制度で設けた公開空地に店舗は出せない。これは合わせて1ha以上の街並み再生区域には規制を緩和するという「東京のしゃれた街並みづくり推進条例」を活用した結果だ。錦町トラッドスクエアだけでは要件に至らないが、北側に道路を隔てた開発ビルと連携し、公開空地の一体的な活用に取り組むことで実現した。平成27(2015)年には、西側に当社も所有者に名を連ねるテラススクエアが竣工し、相乗効果が期待される。錦町トラッドスクエアに入居するカフェを目当てに、神田錦町を訪れる人々は増えてきた。街の景色は少しずつ、だが着実に変わり始めているのだ。

今、千代田区では神田警察通りの再整備へと動き出している。歩道を広げ、歩くにも自転車で走るにも楽しめるエリアづくりだ。広い歩道は、アートやスポーツなどさまざまなイベントにも利用されるだろう。神田警察署のあった一帯には、大型ビルも計画されている。向かいにはファサードの美しい、安田不動産所有の竹橋スクエア、数件先には現代アートギャラリーのスペースもある。
また2丁目の南端、日本橋川のそばに取得したビルには、皇居周囲を走るランナーをサポートする施設もある。ロッカーやシャワー、ラウンジを完備し、1階にはランナーの為に健康的な食事を提供するレストランもある。
神田錦町は、人々が新たな楽しみや豊かなライフスタイルを感じられる街へと大きく変貌を続けている。無機質だったビル街に木々の緑が連なり、人が集い、より一層の賑わいがやってくる日も近いだろう。それはもちろん安田不動産一社の力で成し得るものではない。しかし、明治時代の貸地事業に端を発する“所有する地は人々のために”の心は、ここに確かに息づいているのである。


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