其の六 “陰徳”の心を伝える「日比谷公会堂」「安田講堂」日比谷

後藤新平との絆が生んだ公会堂

東京・日比谷公園内、日比谷通りと外堀通りが交差するそばに、高さ42mの時計塔が威容を誇る「日比谷公会堂・市政会館」がある。2つの名称を持つが、建物は1つ。公園側の日比谷公会堂、外堀通りに面した側の市政会館が一体になったユニークな造りだ。
垂直のラインを強調したデザインはネオ・ゴシック様式。外壁を覆うスクラッチタイルの茶色が重厚感を醸しながらも周囲の緑と穏やかに調和する。竣工は昭和4(1929)年10月。公会堂では戦前から数多くの政治演説会や大会が開かれ、また当時の東京で唯一のコンサートホールとして多くの演奏会が催行された。一方、市政会館には、つくられた当初から東京市政調査会(2012年度より「後藤・安田記念東京都市研究所」に名称変更)や地方自治体、公共性の高い団体の事務所、市政専門図書館が置かれている。

郵便受け箱(地下)/市政会館内では現在も各階に設けたメールシュートが使われている。投入した郵便物は地下1階の郵便受け箱に集まる

これは安田善次郎翁が、当時の東京市長であった後藤新平が提唱する都市計画に共感し、支援したことから生まれた建物だ。建築に要した費用350万円は善次郎翁の寄付による。公務員平均給与が50〜60円の時代、大変な巨額である。
大正9(1920)年12月に市長に就任した後藤は「市政の科学的究明」を理念とし、近代国家日本の首都にふさわしい都市づくりをめざす中で、ニューヨーク市政調査会に範を求めた中立の調査機関と言論・文化の拠点となる多目的ホールの必要性を訴えていた。後藤の講演会を訪ねて以来、彼の考え方に深く共鳴していた善次郎翁は、自ら資金提供を申し出た。匿名で、というのが条件だったという。
しかし大正10(1921)年9月、翁は凶刃に遭って没する。書類箱の中にあった覚え書が発見され、その遺志は没後3年目に二代目善次郎によって実行に移された。後藤個人に350万円ならびに本所横網町の安田本邸不動産一切を寄付し、それをもって東京市政調査会館と東京市公会堂を後藤の責任下において建設するというものだった。
設計はコンペで一等になった佐藤功一による。早稲田大学工学部教授であり大隈講堂でも知られる建築家だ。着工は大正14(1925)年。

関東大震災の教訓から耐震性・耐火性は初期の計画以上に強化された。一帯は地盤が軟弱なため基礎部の底には約18mの松の杭を2200本も打ち込み、鉄筋で組んだ基礎にコンクリートを流しこんであるという。その効果は大きく、建物は現在も地盤沈下の影響はほとんどない。
公会堂ホールには、佐藤が大学の音響実験室で研究した技術がさまざまに生かされた。開場式の際、新聞紙を破った音が参加者全員に聞こえたというのは有名な話だ。また市政会館は建築当初からエレベーター、暖房・換気装置、防火装置、メールシュート、給湯設備などが整った、当時では世界最先端をいくモダンなビルだった。
今、日比谷公会堂・市政会館のレトロな雰囲気に惹かれて訪れる建築ファンは数多い。御影石と大理石のエントランスホール、ブルーのタイルが美しいエレベーターホール、優美な曲線を描く階段手すり、現在も使用されているメールシュートなど一つひとつ見て歩くのも楽しいものだ。1階の一角には開館80周年を機にオープンした「アーカイブカフェ」もある。SPレコードの音を聞きながら過ごせる居心地のよい店内は、オフィス街のオアシス的空間だ。

竣工当時の市政会館/周囲の風景もまだのどかだ

青いタイルのエレベーターホール/エレベーターホールを飾る青いタイルは、設計者の佐藤功一が自ら製作・選定した。その美しさは今も変わらない

時計塔のそびえる東大のシンボル

続いて本郷に向かおう。ここにも善次郎翁の遺志を汲んでつくられた建物がある。平成8(1996)年に登録有形文化財第1号に指定された東京大学安田講堂である。
正門から続く銀杏並木の先に安田講堂がたたずむ姿は、まさに東大を象徴する風景だ。暗かっ色のスクラッチタイルで覆われたゴシック調の建物で、中央には最高峰の誇りを表わすかのように高く時計塔がそびえる。基礎設計は当時の工学部教授、のちに第14代東京帝国大学総長となる内田祥三。営繕課技師の岸田日出刀が実施設計を担当した。
善次郎翁が東大とかかわりを持ったのは大正5(1916)年、東大で仏教哲学研究を進めてほしいと5万円の奨学資金を寄付したのが最初だ。当時の東大は講堂施設がなく、式典にも教室を使っていた。卒業式には天皇がご臨席されるため便殿と呼ぶご休息所が必要なのだが、それもない。仏教の教授からこれを聞いた翁は、迷うことなく予算の100万円をすべて寄付することを申し出たそうだ。大正10(1921)年、文部大臣の許可が下りて正式に計画が動きはじめた2ヶ月後に善次郎翁は亡くなり、二代目がこれを引き継いだ。

大正11(1922)年に着工し、関東大震災での8か月あまりの中断を経て、竣工は大正14(1925)年。震災では大学構内のほとんどの建物が倒壊・類焼したため、この講堂をベースとして新しいキャンパス計画がつくられたそうだ。その後次々と建設された建物は、そのスタイルから「内田ゴシック建築」と呼ばれる。
正面から見たのではわかりにくいが、安田講堂の敷地は急な崖になっている。大講堂は崖上の3、4階部分、崖下の1、2階は事務関連の施設や購買を置くというのが当初からの計画だったという。内部はアール・デコ調の装飾も多く、格調高い。主要な部屋や廊下、階段の床・腰壁などには大理石を貼り、チーク等の良質な材もふんだんに使っている。竣工式に際して東京日日新聞は「あらゆる設備はその壮麗と相俟って、さすがに東洋一の名に恥じないものがある」と報じた。善次郎翁が約した時の費用見積もりは100万円だったが、実際は震災による被害などもあって工費は110万円、障害になる建物の移転などに4万5000円。このすべてが安田保善社からの寄付として支払われた。

安田講堂が大きな注目を浴びたのは昭和43(1968)年の東大紛争だ。全学共闘会議の学生たちが立てこもり、機動隊と衝突する様子はテレビで報道された。この紛争で荒れた講堂は以後20年にわたって荒廃状態のまま閉鎖された。旧安田財閥系企業の寄付もあって修復がスタートしたのは昭和63(1988)年。平成6(1994)年に工事は終了し、今は再び往時の姿を取り戻した。

空撮の安田講堂/建物の後ろ側が半円形の講堂部分。天井には同心円状にひろがる天窓がある

安田講堂が見える風景/銀杏並木から見た安田講堂。前庭には芝生が広がり、天気のいい日には行き交う学生や近隣の人々の姿が絶えない

内部廊下/大理石を敷き詰めた廊下。アーチ状の天井が優雅さと重厚感を漂わす。アール・デコ調の照明も特徴的だ

匿名の寄付は仏教徒としての信念

善次郎翁はこうした社会貢献に対して明確な考えを持った人だった。寄付は強要されるのではなく自己の発露によるものでなければならない。また一時を取り繕う応急策ではなく、真に国家的な発展に結びつく確実な計画性を持った事業に対してならば、いかに多額の寄付であっても躊躇しない。そして、自身の売名になってはならない。仏教に深く帰依していた翁は、なによりも“陰徳”を重んじた。自分の名を表に出しては、仏教の教えから見た場合、徳ではなくなってしまう。陰から支援し、その後の計画にも一切の口を出さないことが、自らに課した条件だった。
東京大学大講堂を安田講堂と呼ぶようになったのは翁の没後。また日比谷公会堂が個人の寄付でつくられたことを知る人は少ない。しかし、それこそが翁の望んだあり方なのだ。安田不動産ではその志を今も引き継ぐ。豊かな社会の実現に寄与する――。この理念は、どれだけ時代を経ても揺らぐことはない。

日比谷公会堂の善次郎翁、後藤新平レリーフ(アップ)/日比谷公会堂の舞台右袖にある善次郎翁のレリーフ(右)。反対側には後藤新平のレリーフ(左)が設置され、2人の絆をひっそりと伝える

日比谷公会堂の善次郎翁、後藤新平レリーフ(アップ)/日比谷公会堂の舞台右袖にある善次郎翁のレリーフ(下)。反対側には後藤新平のレリーフ(上)が設置され、2人の絆をひっそりと伝える


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