其の伍「陰徳陽報」【イントクヨウホウ】 其の伍「陰徳陽報」【イントクヨウホウ】

銀行救済の真の目的

明治25(1892)年、善次郎翁が中国地方のある国立銀行の救済のために調査にあたっていた時の話である。
同銀行は不良貸付が多く、営業再開の見通しが立たない状態であった。この時、宿屋に孫娘を連れた老婆が翁を訪ね、「今では銀行の利子だけが二人の生命の綱になってしまったというのに、銀行がつぶれたら、どうして生きていったらよいのかわからない」と泣きつかれた。翁はこれにいたく同情し、経営者側に苛酷なほどの整理案を立て、ついには営業再開にこぎつけたという。
この時善次郎翁は、事業の整理を行うに当たり、無利子や低利の救済資金を融通し、無配株を引き受けるなど、必ずしも利益を追求した救済を行っていた訳ではなかった。「銀行救済は関係重役や株主を救うためではない。その裏に何万、何十万の預金者があり、かつまたそれには多くの家族がある。銀行を救うということはそうした預金者と家族を救うということである。これこそが銀行を救う真の目的である」。翁は後にこんな言葉を残している。

安田講堂建設の条件

善次郎翁は、教育・医療機関等への助成も行っており、当社の前身である保善社の規約「先祖ノ遺志ニ基キ公益事業及慈善等ノ徳行準備トシテ」にも助成を行うことを記していた。翁の助成は、東京慈恵会病院病床費、富山市立職工学校建設費、東京大学仏教哲学研究奨学資金など様々であるが、その中で特にその功労が語り継がれているのが、東京大学にある「安田講堂」である。「安田講堂」の建設に対し善次郎翁は、匿名を条件に講堂建設費の寄付を東京大学に約束していたが、着工前に善次郎翁は大磯別邸で不慮の死をとげてしまう。その後、残された遺族である二代目善次郎がその遺志を引継ぎ、寄付は実行され講堂は竣工を迎えることができた。こうして完成した「安田講堂」は、匿名が条件ではあったが、東京大学の意向により翁を偲び、「安田講堂」(正式名称:東京大学大講堂)と呼ばれるようになり、現代になってもその呼び名は当時と変わらず「安田講堂」として親しまれている。


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