其の七 引き継がれた善次郎翁の「社会への貢献」墨田区横網

本所横網の広大な敷地に屋敷を構えた時代

成務館

JR総武線の両国駅から間近、国技館の入り口を過ぎるとこんもりとした緑の一角が見えてくる。黒板塀に囲まれた旧安田庭園である。入園は無料。門は年末年始を除いて午後4時半までいつも開かれている。静かな庭園内に足を踏み入れ、前方へと視線を上げると、池の対岸にはレンガ色の壁と緑のドーム屋根が印象的な両国公会堂。そのむこうには同愛記念病院があり、スカイツリーの遠望をへだてた右手には安田学園の建物が並ぶ。いずれも安田善次郎翁の遺志を継いだ安田保善社の社会貢献に端を発するものだ。
今、多くの人々が憩い、行き来し、また学業に励むこの一帯のかつての地名は本所横網町。善次郎翁の邸宅があった地なのである。
元治元(1864)年に両替商安田屋として独立以来、誠実と勤倹を旨として着々と発展を続けた善次郎翁は、明治に入ると国立銀行を創設するまでの資力を持つようになった。明治9(1876)年に第三国立銀行設立後は、多くの国立銀行創設、救済に尽力した。明治11(1878)年にははじめて東京府会議員にも当選した。41歳の時だ。翁の社会的地位は大きく向上し、政財界人との交遊もひろがっていった。

本所横網の田安候邸を購入したのは明治12(1879)年12月のことだ。田安家は八代将軍吉宗の第3子田安宗武を祖とし、一橋家・清水家とともに御三卿に数えられる高位の家柄である。富山城下の軽輩士分に生まれながら、この由緒ある邸を買い取ることができた時の翁の感慨はいかばかりだったであろう。田安邸に肥前平戸藩主松浦候の隠居所、上総一の宮藩主加納候邸を含めた南北約234m、東西はその半分あまりの土地には、それぞれ茶人好みの庭園があった。翁は、深秀園と命名した敷地に、和風家屋懐徳館、洋館成務館を建て、日本橋小網町の本邸に対して、各界の名士らを招く別邸とした。さらに明治24(1891)年には隣接する屋敷を旧岡山藩主池田章政候から購入し、小網町から住まいを移す。以後、本邸となったこの場所が現在の旧安田庭園、深秀園の場所に建つのが同愛記念病院と安田学園である

池に映る両国公会堂

晩年の善次郎翁は社会的事業への寄付に力を入れていた。東京市長だった後藤新平の市政調査会構想に共鳴し、350万円の資金のほか本所横網町の安田本邸の土地・建物を寄付すると約したのもそのひとつだ。しかし、その覚え書を記した大正10(1921)年に翁は亡くなる。現在の墨田区横網1〜2丁目の風景は、その社会貢献への遺志を継いだ二代目善次郎によって実現したものだ。
ここに公共的な建物が集中している理由には、善次郎翁の思いだけではない、もうひとつの大きな出来事が介在する。大正12(1923)年に発生した関東大震災だ。本所は甚大な被害を受けた。深秀園に隣接する陸軍被服廠では、火災旋風によって3万8000人あまりの焼死者が出たとされる。旧安田庭園にも多くの人々が避難した。安田家では善次郎翁の四男夫妻やその子女、使用人らが焼死し、傘下企業も大きく被災した。
追善、そして東京復興へ。二代目善次郎の胸には、その強い意思があった。


善次郎翁本邸跡「旧安田庭園」と、
敷地に建つ「両国公会堂」

旧安田庭園は、隅田川の水を引きこんだ潮入回遊式庭園として名高い。もともとは元禄4(1691)年に下野国足利藩二万石の領主だった本庄因幡守宗資(のちに常陸笠間藩、丹後宮津藩藩主)が下屋敷を構えて築造した庭園で、安政年間に潮入に改修した。
潮入りとは、潮位によって池の水を満ち引きさせ、時間とともに変化する景色を楽しむもので、世界的にも大変めずらしい造園手法。浜離宮恩賜公園、芝離宮恩賜公園、清澄庭園も同様のしくみを持つが、現在も水位の変化する様子を目にできるのは浜離宮とここだけだ。創建当時には五代将軍綱吉を迎えたこともある名園である。明治維新後、池田候の邸宅になったのち、善次郎翁が本邸として所有し、大正11(1922)年に東京市に寄付された。
庭園は関東大震災で大きく傷められたが、残った地割石組をもとに復元され、昭和2(1927)年に市民の庭園として一般公開されるに至った。やがて隅田川の水質悪化や堤防補強に伴って水門は昭和40(1965)年頃に閉じられたが、昭和46(1971)年に地下貯水槽をつくり、ポンプによって干満を人工的に再現。往時の潮入りの姿を取り戻した。平成8(1996)年に江戸期の代表的大名庭園のひとつとして東京都の名勝に指定、同18(2006)年には日本の歴史公園百園にも選定されている。
木々の緑に包まれた心地のいい庭園だ。心字池を中心にした園路は15分ほどで回れる。ベンチでくつろぐ人、池のカモや亀に餌をまく人……、平日でも池の周囲に人影は絶えない。まさに市民の憩いの場だ。
国技館側の門から入ると、石橋のそばに水門の跡がある。潮入りの様子がよくわかるのは、水辺に石を敷き詰めた洲浜だ。水が引けば洲浜をじかに歩けるが、満ちれば沢飛び石だけが水面に顔を出す。松が繁る中島や、荒磯をあらわす石の印象も、水の高さによって変わっていく。
園内にいくつも立つ大きな石灯籠も大名庭園らしいところ。また寛政6(1794)年の隅田川氾濫にまつわる史跡「駒止石」や、駒止稲荷神社の小さな社も、この庭園の長い歴史をしのばせる。

池に映る姿も美しい両国公会堂は、大正15(1926)年に本所公会堂の名で建てられた。鉄筋コンクリート造4階建、定員790人の大小ホールを持つ建物の総工費は約33万7000円。費用は安田家の寄付金からまかなわれた。
銅葺きのドーム屋根や、セメントを吹きつけた壁、円筒型の建物本体と平面的なファサードの組み合わせなど、実にモダンなデザインは森山松之助によるもの。東京駅や日銀本店などで知られる辰野金吾に学び、台湾総督府の技師としても活躍した建築家だ。
震災で焦土と化した地に建てられた公会堂は、復興のモニュメントでもあった。当時としては最新の耐震設計をほどこしてあるという。戦時中は食糧配給所、敗戦後は進駐軍の付属クラブとして使われ、その後は長年、コンサートや発表会、スポーツイベントで賑わった。老朽化により平成13(2001)年より使用停止となっている。

洲浜や沢飛び石の見える庭園風景

潮入りの水門跡

旧安田庭園風景

震災を経てこの地に建てられた
「同愛記念病院」と「安田学園」

同愛記念病院

現在の安田学園

安田学園内にある創立者安田善次郎翁像

同愛記念病院と安田学園が建つのは、善次郎翁の別邸深秀園があった地である。
関東大震災の惨禍に際し、米国赤十字社では日本救援のため多くの義援金を集めた。日本政府はこの中から約700万円をあて、アメリカ国民の篤い同情と友愛の心を記念し、震災地域の医療事業を行う病院を設立することを決めた。建設地として選ばれたのが、悲惨を極めた陸軍被服廠に近接する安田邸跡地である。
二代目善次郎は、焼け跡となっていた敷地を譲渡し、その代価の一部約12万円を建設費用として寄付した。こうして同愛記念病院(The Fraternity Memorian Hospital)は昭和4(1929)年に開院。戦後の一時的な診療中断を経て、現在は東京を代表する大病院のひとつとなっている。
一方、安田学園開設の経緯には、商工業に必要な人材育成に関心が深かった善次郎翁の遺志がある。
大正7(1918)年、経営に困窮する東京府教育会付属東京植民貿易語学校から援助を求められた善次郎翁は、6万円を寄付して財団組織を結成する。その熱意を継承した二代目善次郎は大正12(1925)年の東京保善商業学校の併設も応援。関東大震災で校舎が焼失すると、元深秀園の敷地を提供して再興を後押しした。
やがて100万円の基金をもとに保善商工教育財団を設立。深刻化する不況の中、大正14(1927)年には工業高校の併設も果たす。昭和11(1936)年に保善商工教育財団傘下の2校は安田商業高校、安田工業高校と改称。それまでに安田財閥から財団に投じた寄付総額は83万円に及んだ。
現在では、学校法人安田学園教育会のもと、中高一貫教育を行う安田学園中学校・高等学校が運営されている。スポーツにも力を入れており、硬式野球部が平成25(2013)年の第85回記念選抜高校野球大会で甲子園初出場。惜しくも初戦で敗退したが、多くの応援を集めた。設立当初より男子校であった安田学園だが、平成26(2014)年から男女共学に移行している。
医療、人材教育、そして市民が集い憩う場。安田家の社会貢献はつねに、広く公共の利益へと目を向けて行われてきた。

人々が安心して暮らせる、安定したよりよい未来のために、財を惜しまず力を注ぐこと。旧安田庭園の一角に建つ石碑には、善次郎翁の信念であった「至誠勤倹」の文字が力強く刻まれている。その心は、今も変わることなく受け継がれている。


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