其の伍 安田不動産の貸ビル第一号「築地安田ビル」の地 築地

海上に築かれた大地、築地

中央区築地は、重要文化財の築地本願寺や水産物取扱が国内最大の築地市場などが全国的に有名であるが、明治初期には築地居留地が設置されていたことでも知られている。築地の地名の由来にもなっているように、この地は海上を埋め立てて築いた土地であり、その歴史は約350年前の江戸時代初期まで遡る。
明暦3(1657)年に本郷丸山(現在の文京区本郷5丁目付近)の本妙寺など三箇所から出火した大火災「振袖火事」。これにより、江戸幕府が城内の密集を解消するため当時八丁堀の海上を埋立て、大名屋敷や寺社、町人地を移転させることを目的として造成した土地が現在の築地である。京都の西本願寺の別院として現在の日本橋横山町に建てられた江戸浅草御坊(浅草に近いことからこの名で親しまれていた)もこの大火で焼失したが、幕府から再建の地として与えられたのが築地であった。ここに新たに築かれたのが築地本願寺(正式名称:浄土真宗本願寺派築地本願寺)である。

明治2(1869)年には、築地が海と堀で囲まれた土地であることから、築地の中でも当時隅田川の河口の武家地であった築地鉄砲洲(現在の中央区明石町周辺)に築地居留地が置かれ、この居留地に建てられた公使館や領事館は20カ国を超えたという。こうして築地を窓口として東京の街に西洋文化が次々と広まっていった。
安田善次郎翁は明治20(1887)年前後に築地の土地を購入したという記録が残っているが、この地が選ばれたのは、この辺り一帯が居留地など多くの異国文化が飛び交い大変賑わっていたことからではないかと考えられている。
大正12(1923)年に発生した関東大震災では、東京の都市部の大部分が火災で焼失し、築地本願寺の本堂も焼失してしまった。

その後、築地エリアは区画整理により大規模な道路が建設され、焼失した築地本願寺は、当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあった東京帝国大学工学部教授・伊東忠太による設計で昭和9(1934)年に再建された。再建された築地本願寺は、大理石彫刻がふんだんに用いられた古代インド様式(天竺様式)の仕様が特徴的で、この建物が現在の築地本願寺であり、築地市場と並び街の顔となっている。
築地本願寺が再建された翌年の昭和10(1935)年には、中央区日本橋にあった魚市場が築地に移転し、現在の築地市場に続いている。水産物取扱量が国内最大の卸売市場である築地市場は、場内外に約400店舗が立ち並ぶ総合商店街で東京の台所とも言われており、代表的観光名所となっている。

明治初期の築地居留地(明治4(1871)年「東京築地異人館」歌川国輝二代)

貸ビル第一号「築地安田ビル」

当社は昭和25(1950)年の設立以来、昭和30(1955)年頃までは善次郎翁から引き継いだ東京、横須賀、神戸を中心とした貸地業を主体としながら、不動産の売買・仲介、分譲事業などを展開していた。そうした中で、更なる安定した収益機会を確保するために貸ビル業への進出を模索していたところ、築地三丁目のまとまった土地が借地人から返還されることになり、これを契機として当社の貸ビル第一号としての築地安田ビル計画が始まった。返還された土地の一部は、都市計画による道路拡幅が決定(現在の晴海通り)しておりビルの敷地面積が縮小してしまうことが避けられなかったため、隣地を取り込むことなどにより昭和39(1964)年に至り、着工することとなった。築地安田ビルが竣工した昭和40(1965)年は、東京オリンピックや新幹線の開通に沸いたオリンピック景気の反動による証券不況(昭和40年不況)の真只中であったため、オフィスビルの需要が著しく減少し、築地安田ビルは厳しいスタートを切ることになった。しかしながら、全社をあげたテナント募集活動により1年後には満室稼動となったのであった。
※昭和45(1970)年に社名を永楽不動産から安田不動産に変更したことに伴い、ビル名称を「永楽不動産築地ビル」から「築地安田ビル」に変更。

竣工時(昭和40(1965)年当時)の「築地安田ビル」

築地の発展に貢献

築地安田ビルの竣工後、当社は都心3区を中心に業容の拡大を行ってきた。当社が再び築地エリアの開発に乗り出したのは、築地安田ビルの竣工から約10年が経過した昭和50(1975)年頃であった。当社が晴海通りと新大橋通りに面した築地4丁目交差点に面した角地に所有していた貸地には、古くからの築地市場関係の木造建物が密集していたため、土地の高度利用がなされないままになっていた。また、消防庁からは、防災の観点より早期に建替えを行うよう要請を受けていた。
昭和51(1976)年から当社と借地人との間で建替えに向けた協議を開始したが、等価交換方式では借地人が取得する床面積が減少するなどの問題もあり、建替えに向けた具体的な協議はなかなか進展せず、協議を開始してから7年の月日が流れた昭和58(1983)年、借地人と当社が建設資金を共同で出資するというスキームにより、「築地KYビル」として建替えを実施することで最終的に合意に至った。その後、テナントの仮移転先への引越し、既存建物の解体などを経て、昭和62(1987)年に着工し、昭和63(1988)年には満室稼動で竣工を迎えることができたのであった。当社の築地エリアでの事業は、現在では貸ビルだけでなく分譲マンション、賃貸マンション、店舗運営など多岐にわたり展開されている。平成17(2005)年には築地4丁目に全60戸の1R〜1LDKを中心とした都心型コンパクト分譲マンションの「レフィール銀座フロント」を分譲。銀座に近接していることもありコンパクトマンションの供給が多かった築地エリアで、平成19(2007)年には3〜4LDKを中心とした全107戸の都心型ファミリー向けマンション「レフィール築地レジデンス」を分譲した。
平成21(2009)年には、築地本願寺正門の向いに、SOHO向け賃貸マンションシリーズとして「レクス築地」が竣工した。レクス築地は、大小の部屋が間仕切りで区切られた構成となっており、入居者が寝室などのプライベートな空間と仕事をする場を区切って2室構成として使用したり、間仕切りを開放することで大きなワンルーム形状の仕事場として使用したりすることができるようになっている。また、床仕上げについても住宅としての利用を想定したフローリング仕上げや仕事場を想定したタイルカーペット仕上げと用途に応じた仕様となっており、入居者が目的に応じて選択できるようになっている。
また、レクス築地の1・2階部分には、当社子会社の安田開発が運営する「築地テラス」というカフェがあり、店内から築地本願寺を見渡せるのが特徴となっている。このカフェは、レクス築地の入居者が打合せや気分転換の場として利用するだけでなく、憩いの場として近隣の多くのオフィスワーカーや住民にも利用されている。

当社の築地における開発の歴史は、貸ビル第一号の築地安田ビルに始まり、ファミリー向け分譲マンションのレフィール築地レジデンス、SOHO向け賃貸マンションのレクス築地やカフェ運営など、築地がかつて外国人居留地という異国文化や当時の最先端の情報発信地であったように、新たな事業に挑戦し、発信するというものであるといえる。当社は、今後ともこの築地という当社伝統の地で、歴史・文化を継承しつつ、社会に、街に新しい歴史を築いていきたいと考えている。

築地KYビル

築地テラス

レフィール築地レジデンス

レフィール銀座フロント

レクス築地

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